分離してまた肉体へ落ちてゆくドビュッシー

皆さんは、ドビュッシーという作曲家をしていますか?好きですか?

知らない方もいらっしゃると思われますが、歌曲を歌う身にとっては天才だったと言わざるを得ない作曲家です。

なかなかキャッチーな音楽も多く、わたしの大好きな作曲家の一人です。

ドビュッシーの何がすごいかっていうと、まず、すごく難しそうな曲でも、喉に無理がこないことが挙げられます。

とても好きだなと思う曲でも、人間の声のこと身体のことを分かっていない、器楽曲の得意な作曲家もいて、そういう作曲家の歌は、喉が疲れる(ベートーベンが喉疲れる界のトップと言えるだろうと、わたしは思う)。そんな曲はワンフレーズでさえも歌うのが億劫なのだ。

ドビュッシーの歌曲がなぜここまで、喉に負担がないのかは、喋ったままに、それ以上でも以下でもなく作曲されているところにあるのかもしれない。

わたしは完全にフランス語ができるわけではないのですが、大体うまくいかない時は、喋りと逆行している時に体に歪みが生じていることが多い。

それから、ドビュッシーは詩を読み込む天才だったと思う。

これは、ドビュッシーの研究をしている方が口を揃えていうことだ。

さらに、詩を読み込み、その詩の世界を音楽で表現する天才だ。

前に歌った歌曲を例にしたい。

ヴェルレーヌ作詞/ドビュッシー作曲の《忘れられた小唄》の中の〈樹々の影〉という曲だ。

ヴェルレーヌの書いた詩の内容は、

森の中で雉鳩が高い木の枝に止まり、鳴いていて、それが水面に映っている。
空高くいるはずの雉鳩は、水面に映り泣く。旅人の希望と同じように、溺れて。

こんなような内容です。

高いところにとまって鳴いている雉鳩が水面に映って、溺れている。(君の望みのように高みにあるが、それは叶うことがないことを予想しているかのように溺れている)

最後の歌詞に溺れるという言葉がくるのだが、中音域から高音に上がり、また同じ音に戻ってくる。溺れるという言葉は絶対的に下に沈まないと溺れられないというのが普通だが、高音に上がることで「溺れる」ことを表現しなければならない。

しっかり溺れた高音にしなければいけない。溺れるという言葉を口にしながら、肉体では高音をか細く出す。これを歌うと雉鳩が上にいるのか下にいるのか分からなくなってくる。

分離した上と下にいる雉鳩のどちらが実体でどちらが影なのか分からない肉体の感覚を、歌でもなぞらえて、高音で溺れ、中音域では空高いのだ。

音色の表現として試行錯誤した末の肉体の状態が、追体験のような身体感覚として、肉体へ落ちていく。最後はその世界をフィジカルな面で理解することになるのだ。

こんな体験ができることが、声楽家の醍醐味だ。

《不思議の国のアリス》でお馴染みのルイス・キャロルがアリスの世界のように、普段から自分の体が大きくなったように感じる脳の病気だったことは、よく知られたことではあるが、ドビュッシーもまた、人とは違う、不思議な感覚を持っていたことが、音楽から読み取れる。

そして、いつも絶望していたのかな?と思うほど、愛とか希望とかを叫ぶ部分では、残酷な音を選び、時は待ってくれないと言った残酷なテンポ設定になっていたりする。

音楽家は、作曲家や詩人の描いた世界や感覚を、演奏することで、フィジカルに体験ができるのだ。演奏する音楽家の特権である。

わたしが、こういった体験ができるようになったのは、ここ数年だ。

…これが、誰の、何の得になるのかと聞かれては困るが、この世界を知ってしまった人はなかなかこの世界から抜け出せない。

芸術とは、そもそも実生活と分断させる行為なのだから、得になることはひとつもないのだ…。

……お得が好きな人は、夕方のスーパーに行ったら割引シールを貼ってもらえる。そちらをお勧めしたい。

とはいえ、わたしも夕方のスーパーのお得さは好きだ。ウイ

下層音楽家非同盟 いずみ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA