人生初めてのダダとの出会い

わたしが東京に初めて二週間滞在したのは19歳の時だった。

わたしのことを可愛がってくれている先輩が、東京藝大に通いはじめた最初の夏だった。

先輩は寮に住んでいた。二週間もの間、わたしは先輩の住んでいる寮にお世話になった。

本当にいい思い出だ。

その当時の藝大寮はものすごく古い建物で上石神井にあった。

壊れかけの団地のような佇まいの寮の中は広く、あちこちにヒビが入っていた。

5〜7つの部屋でひとつのかたまりになっていて、トイレ、キッチンは共有スペースだった。

お風呂は銭湯のように広く、湯船が2〜3個あったような記憶があり、寮の全員が共有するものだった。

家賃、光熱費、管理費込みで月々一万円からお釣りが返ってくると先輩は言っていた。

こんなに安く東京に住めるなら、何があっても大丈夫そうだな、とわたしは思った。

先輩は、8畳の部屋に住んでいたが相部屋だった。

真ん中はカーテンで仕切られるようになっていたが、ほとんど開いていた。

相部屋の方は、確か、邦楽科の方で、お琴か三味線か分からないが、何かの日本の楽器を勉強している大学院生で、とても静かで優しかった。

滞在中に、おしゃべりをしたり、高級なゼリーをもらって食べたりした。

8畳の部屋に、先輩、相部屋の方、わたし、そしてわたしの友達の、合計4人で生活した。

先輩は芸大の文化祭である「藝祭」の準備で忙しく、一緒に九州からきた友達と東京のいろんなところを観光した。

わたしにとって一番驚いたことが、電車に乗る頻度で、こんなにいつも電車に乗って移動するのかとくたびれた。

そして、どんなに後ろに下がっても、ものすごいスピードで走る電車をホームから見るのは怖かった。

どこの時代の人だと思われるかもしれないが、電車に乗ることがほとんどなく育ったわたしには全てが新鮮だった。

地元の祭りの時より人が多いことに本当に驚いた。

寮で知り合った人から、六本木の森美術館で面白いものが見れるときいて、次の日に行ってみた。

アイ・ウェイウェイという中国人アーティストの作品だった。

一平方メートルほどの立方体になった烏龍茶の茶葉や、天井に祭り上げられた自転車など、よくわからなかったが、ひとつ大きな衝撃を受けた作品があった。

その作品は中国の古い壺で、文化的な価値のあるもので、紀元前200年、中国の漢王朝時代に作られた壺で、1億円のものもあるそう。

それを、ド派手な色のペンキでコーティングしたものだった。わたしはそれを知った時「なんてこった、、、」と思い、この人はミスタービーンのような事を現実にやってのけたのかと思った。

だが、ふと思った。壺は壺で、それ以上でも以下でもない。

機能としては、水を汲んだり食料を貯蔵したりできるのであれば、人間にとっては壺として十分な役割を果たす。

それなのに私たちは、壺の価値や文化的な背景を大切にし、そういったことが損なわれることに敏感で、複雑な気持ちになる。

壺が無機質なペンキでコーティングされていても、紀元前200年以上も前の漢王朝時代を生きた人間が施した縄の装飾も、壺の役割とは全く別の次元にある。

芸術とはこういうものなのか。人間の実生活には全く関与しないものだが、人に寄り添い共に生き続けるものだと思えた。

アイウェイウェイは髭の生えたいたずらっぽいおじさんだった。その顔は「ね?芸術ってなんだかわかってくれた?結局、ないと生きていけないでしょ?ないと面白くないもんね?」と言っているようだった。

19歳、初めての挑発的な芸術との出会いだった。

私が、ダダイスムについて勉強し始めたのは、ここ最近の4〜5年だが、それ以前にダダに出会って衝撃を受けていたことを、つい最近、思い出した。

下層音楽家非同盟 いずみ

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