エリック・サティの代表作《ジムノペディ》というピアノ曲をみなさんは絶対に聞いたことがあると思う。
聞けばわかる。数々のCMや映画に使われ、知らない人はいないでしょう。
非常に音の数か少なく、穏やかでメランコリックな表情を持った曲。ピアノ初心者でも練習すればすぐに弾けてしまう。弾くのは簡単だから、自分の技術を全て発揮出来ないというところで、なかなかプロのピアニストは弾かない。というより、プロが何も考えず無意識で弾くとおかしなことになる曲かもしれない、と私は思う。
チッコリーニの名演奏をよく聞いていただければ分かるが、人が生まれながらに持っている指それぞれの弾き方の個性を出すように演奏している。まだ、ピアノ教育がしっかり行き届いていない、音の粒をそろえて弾けない、あの感じ。
ピアニストは、美しく音を奏でたり演奏するための様々な技術をアスリートさながら、3歳ごろから毎日毎日、自分の体に刻み込んでいるわけです。生まれながらの指の動きや強さというものを強制してしまっているんです。そして、知らない曲でも楽譜を前に置けば、体が勝手に動いて演奏してくれるような境地にいるんです。これって本当にすごいことだし、様々なピアノ曲を演奏するには絶対に必要なんです。ただ、サティのピアノ曲にはそれが通用しない。習得した技術を封印しなければ「サティの音楽」は演奏できない。それは、楽譜を見てもよく分かる。
普通、ピアノの楽譜には、どれくらいのテンポでどのように弾けばいいのか、すぐわかるように指示記号が書かれている。例えば、「快速に」「優しく」「悲哀に満ちた」など。でも、サティのピアノ曲は「頭を開いて」「奥歯の先で」「少し酔っ払って」「しゃぶって」「舌の上で」など、既成の指示記号を使わないため、「どんな音なんだよ!それ!」と突っ込みたくなる奇妙奇天烈な指示が書かれている。たくさんの曲を弾いてきたピアニストほど「?」が大きくなる。
そして、ほとんどのピアニストが「無視」を決め込む。
ピアニストは、伝統的なクラシックの楽譜の書き方を見るや否や、習得した技術で自動的に体が動いて、深く考えなくても自動演奏できてしまう。この自動演奏への戒めなのかなと思う。
または、音楽は本来、音になったものが「音楽」なのに、楽譜があることによって、演奏の仕方ががんじがらめになり、自由に演奏されなくなってしまった。サティは、そんな音楽を解放し、惰性ではなく新しい感覚で楽譜を見て、改めて人を芸術と向き合わせようとしているように感じる。
ピアニストに対して「もっとちゃんと、音楽自体を見てよ」という強いメッセージを感じる。
みんながワーグナーという「しかめっ面をした音楽」に心酔していた時代に、このミニマルな曲を書いたのだ。
サティ、すごい!
下層音楽家非同盟 いずみ