ダダという言葉は、一見「でたらめな作品」「眉唾ものの作品」と感じ、人々の精神や感情を逆なでしいらいらさせたり、あるいはなぜかおかしさを感じさせるものである。
美術作品において有名なものを挙げても、その性格は明確である。
マルセル・デュシャンのレディ・メイド《泉》という作品は既製品である男性用の便器に偽名のサインをし、タイトルをつけただけのものであるし、フーゴ・バルの「音響詩」は単語を音に還元して、言語を解体することを提案した作品で、つまり無意味な音の羅列でできた詩である。
ダダとはでたらめなやり方で作品を作っただけなのか?なぜこのようなイデオロギーが生まれたのか。
このダダイスムという運動は、前衛の反抗的な態度を受け継ぎ、当時、政治的中立国であったスイスのチューリヒで始まったとされている。
しかし、第一次世界大戦のさなか各国の都市で同時多発的に出現したと言える運動である。
よって、精神は同じといえども地域によっての性格の違いがあり、戦争の被害と比例して運動の過激さの度合いも違った。
人類が今まで築き上げた歴史・伝統・慣行を否定し、さらには破壊的精神・諧謔的精神によって既成の価値観を見直させ、あらゆるものの真価を問い直すという芸術運動である。
戦闘で家族や友人が殺され明日は我が身という中、既成支配層は人命を何とも思わず私腹を肥やしていた。人間の生活は進歩し豊かになったが、人間の開発した技術が不当で無意味な戦争に結び付き、愛する人の命を奪い、全てを破壊していく。
ダダの芸術家たちはこの戦争を嘆き悲しんだりせずに、大胆に抗議し続けた。
社会が腐敗していることを暴き、ユーモアと偶像破壊的行為によって規制の約束事を攻撃し、戦時中の愛国主義の呼びかけに加担することを拒んだ。
そうした行為は、聴衆を喜ばせるどころか挑発し苛立たせ、混沌に陥れられた聴衆は騒ぎ出し、スキャンダルを巻き起こした。
人は、意外と物事を表面でしか見れないものなのだ。
マルセル・デュシャンの《泉》も美術品とは程遠い大量生産された「便器」が画廊や美術館に並ぶことで作品になり得るということや、美術品には熟練の技術と唯一性が必要という概念を打ち砕いた。
美術展に出品するという既成ルートに乗せられ、本来唯一無二の高尚な芸術品がはめこまれる、美術館という枠組みに入れられた、ただの「便器」、これこそがダダの告発の仕方なのだ。
また、私がダダイスムに惹かれる理由は、考えさせられるところにある。
当たり前だと思われている現代に横行している「常識」という枠組みを根本から見直させる力を持っている。非常に尊く、それでいて、おもしろおかしくも感じられる。
ダダの演劇も面白い。
ダダの演劇は、演者と観客という枠組みを廃止する。
演者は舞台に出て行っても、何もしなかったり、お粗末なことをする。
それに対して観客は「ふざけるな!演技しろ!」と激怒する。
その観客の姿は、あたかも熱気があり演じている役者のように、スペクタクル(見せ物)に値するものとなる。
そうなのだ。演者と観客の役割が入れ替わってしまっているのである。
演技するものと、それを観る者という既成の枠組みをぶっ壊している。
非常に面白いと思ってしまう。
いつかそんな、ダダの演奏会を催してみたいものだ。
下層音楽家非同盟 いずみ