2005年に出版された鷲田清一著の『ちぐはぐな身体』という本を読みました。
ファッション哲学、身体性についての領域の本で本当に面白かった。
人は自分の身体を最も近くにあるものだと思っているが、実際は自分の体について持っている情報は貧弱なもので、背中や後頭部、顔は自分の目で直に見ることができない。
直に見えない部分は、シャワーを浴びた時のお湯の当たる感覚などの知覚情報でしか直には感じられないのである。
つまり、人が直に見たり触れたりして確認できるのは、断片であって、自分の身体はこんな感じなのかな?と想像の中でしか全体像を表さないのだ。
自分の身体に関しては常に部分的な経験しかできない。つまり、各部分の身体像をパッチワークのようにつぎはぎし、ひとつのまとまった身体として認識されるのだ。
だから、身体のイメージは壊れやすくもろい。
このもろい身体への不安を鎮めるために、体の脆さを補強するために、人は見えない身体の輪郭を浮き彫りにしようとする。
汗をかいて肌がひんやりするのも、他人の手で身体をなでられるのも、お酒を飲むと血が皮膚の裏側ぎりぎりのところにまで押し寄せてくるのも、お湯に浸かることも、肌に触れることが全て心地良いのは視覚的に直接感知できない体の輪郭が浮き出てくるから。
身体のイメージを強化して人の存在に確かな囲いを与えてくれるのだ。
服も、身体を動かすたびに皮膚が布地に触れることによって、直に見ることのできない身体のあやふやな輪郭をくっきり浮き立たせてくれる。こういった感覚が、私たちの気分を安定させてくれるのだ。
そのほかに、身体というイメージを強化する方法が、体に切れ目を入れること。
イメージで身体に切れ目を入れるのだ。布一枚を体に巻くだけでも、「内」と「外」が出現し、その内部だけが自分だけの「秘密の」空間となる。布一枚纏うだけで、見せる/隠すの二つのベクトルが発生する。
すると、人の視線は「布」と「そこから見える肌」との境界に吸い寄せられる。
境目をどこに設定するかでということが服飾哲学のポイントになってくる。
胸ぐりはどの深さにするか、スカート丈、袖口の位置、黒いガーターとストッキングに素肌のコンビネーションはただ身体を象徴的に切断するために考え出されたとしか言えないくらいだと鷲田氏は言っている。
また、この切断は皮膚にも書き込まれる。口紅、ひげ、アイライン、マニュキア、ネックレス、ブレスレットにも身体を象徴的に切断する、身体の表面に線を引き、分割することで意味を生む。
身体に引かれた切断線がシャープであればあるほど、怪しげな誘惑力を持つ。
確かに服を着るという意図つの行動は、「見せる」と「隠す」が同列にあって、自然とその境界に目は吸い寄せられる。
職業柄、ドレスを着なければいけないことが多いのだが、ドレスの胸ぐりのラインの取り方で大きく印象が変わってくる。
ほとんど胸が見えるようなドレスもあるが、個人的には、胸ぐりをあえて全く見せないドレスというのが、女性が着て最もセクシーだと思う。隠すからこその色っぽさがある。
ひとつの身体はあやふやなイメージでつながり、服を着ることで個体の感覚を取り戻すが、服によってまた象徴的なイメージとして切断される。非常に面白い。
下層音楽家非同盟 いずみ